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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 15「常磐通信・第15号」
 
 
 
転職だ、テロだ、停電だ、などと、なんだかんだありながらも、なんとか生き残って来た坂本家のジョンナラン・ニューヨーク生活も早5年が経ち2003年。先の事など全くわからないまま、突っ走って来たわけで、わりと置き去りにして来た事もある。例えば、自動車運転免許。何年アメリカにいれるかわからないし、地下鉄あるから必要ないし、ましてそんな贅沢する金など全くない状況だったのだが、友人の車に乗せてもらっても、運転を代わってあげる事もできないし、40手前のオッサンが車の免許も持ってないってちょいと恥ずかしい。ということで車の免許を取る事にした。

まずはDMV(陸運局みたいな所)に行って、ニューヨーク州に住んでいる証明(電気代や電話代の請求書、クレジットカードやら)を提出し、筆記試験を受ける。筆記試験は日本語もあるので、英語力を心配する必要もないのだが、日本語訳が微妙におかしい。まあ、どっちにしても英語よりはマシかなと思い、日本語で受験し、問題なく合格。合格したら視力検査と顔写真を撮られる。

次は道路交通法の講習を4時間受けなければならないのであるが、場所が違う。民間の自動車学校で受けなければならない。ということで、ほとんどの日本人が行っているであろう日本人経営の自動車学校に行く事にした。まあ、なんというか、寂れたビルの中に、これまた80年代ぐらいから全く模様替えもしていないよーな部屋で、さらに、もう何千回もやっているであろう、同じネタとウンチクを織り交ぜ、受講者を半ば無理矢理笑わせながら話をする、じいさん講師による講習を受ける。講習が終了すると、また簡単な筆記試験を受ける。そして路上試験の予約をする。さらに教習所の講師に何時間か路上訓練をしてもらう。とか、路上試験当日に現地近くの良く似たコースで練習する。とかのオプションがある。日本でさんざん車に乗っていた私は技術的な問題はないので路上試験当日のコース練習だけを申し込んだ。

とは言うものの、路上練習はちょいとしたいので、車を持ってる友人に1日つき合ってもらった。家の近所を行ったり来たりするのだが、右車線はわりと簡単に慣れる。というか右を走らないと事故になるのだから、かなり必死だ。ちょいと問題があるのが、標識である。左車線に慣れているので、交差点なんかに来ると、目が勝手に左を見るクセが直らない、当然アメリカの標識は右車線の右にあるのだから、なかなか慣れなかった。

もう一つ私にとって最大の問題が、交差点の優先順位である。日本だと交差点では、一方が優先道路になっているのが普通なのだが、ニューヨークにはどっちも優先じゃない所がいっぱいある。どーいう事かというと、交差点全ての車線に一時停止の標識があるのだ。という事は直進が優先だとか、右折が優先だとか、あるのかというと、それもない。どーするかというと停止線に止まった順番に優先順位が決まるのだ。だから、対向車がほぼ同時に止まろうものなら、どっちが先かなんてわからないのである。もう「ドライバーのさじ加減」というか「ドライバーの気分次第」なのである。しかし「自分の方がちょっと早く止まったけど、先に行かせてやろう。」とか思って待っていても、私が発進するまで、ずーっと待っているドライバーもいれば、先に行ったもん勝ちのよーなドライバーもいる。さらに、先に止まった車の後ろにいる車も一緒に発進しだしたりもする。結構な確率で無法地帯になるのである。

路上試験の場所はマンハッタンから電車で30分ぐらい行った郊外である。ニューヨーク郊外はマンハッタンとは全く違う趣きで、市内に住んでいる私からすれば、小奇麗にし、ハイソな感じにはしているが、車がないと住めないだろう田舎である。とりあえず自動車学校の人に最寄りの駅まで迎えに来てもらい、そのまま実際の路上試験現場の近くで30分ほど練習をした。まあ、なんとかなるかと思いながら、路上試験スタート地点まで移動。ちょいとだだっ広い、交通量の少ない道路に路上試験用の車が何台も止まっていて、受験者を乗せては発進させ、10分ほどで戻ってきて、その場で合否がわかるようである。

待つ事20分、私の順番が回って来た。日本ならサイドミラーのチェックだのバックミラーのチェックだの、あーだこーだとやるのだが、こっちはそんなのいちいちチェックしないよーで、とりあえずシートベルト締めて出発。最初の交差点を右折して大通りにでる。3ブロック走ったところで「左に曲がれ」と言われ信号待ちをして、左折。しばらくすると速度規制の標識がある。これを見逃して減速しなかったら減点である。「次ぎを右に曲がれ」と言われまた右折。右折は対向車を気にしなくていーので楽である。「次は縦列駐車、次は3ポイントターン」とソツなくこなし、後は帰るだけだったのだが「出た!全線一時停止交差点。」対向車線に私よりも先に車が止まったのだが、待てど暮らせど動く気配がない。それなら私が行くしかないとさっさと左折をしてゴール。

「結果、落ちちゃいました。あそこで、先に行ったからだって…」

たぶん、あの車はご近所さんで、いつものよーに路上試験中の車を発見して気を利かせたのか、関わりたくなかったのか…。結局また予約を入れて2週間後に違う場所で路上試験を受け、レシートのようなペラッペラの仮免を渡され無事合格したのである。そして後日相変わらず写真写りの悪い私の顔写真が入った免許証が送られて来た。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 14「常磐通信・第14号」
 
 
 
ブラックアウトでスタジオに宿泊し、次の日の朝になんとか帰宅する事ができたのではあるが、停電はまだ続いていた。

家に帰ると、ユキ殿もキナリも、いつものように生活していた。ただ違うのは部屋がちょいと薄暗いだけだった。幸いリビングは壁一面がガラス張りになっているのでそれほど暗くもない。イーストリバー&マンハッタンビューなので、テレビは見れなくても飽きる事はない。さらに用意周到のユキ殿によって2つあるバスルームの浴槽にはすでに水が溜められ、トイレ用と風呂用と十分な水があった。夏なので水風呂でもなんら問題なかった。

しばらくすると近所に住んでいる友人トモが水と食料を持ってやって来た。トモは原宿にあるピーク・ア・ブーというヘアサロンの元店長で、いわいるカリスマ美容師である。たまたまアレックスのスタジオにヘアスタイリストとして仕事に来たのだが、偶然にも同じルーズベルトアイランドに住んでいたことから仲良くなった。それ以来私の髪の毛はトモに切ってもらっている。ドレッドロックスもしてもらった。トモは撮影がない時はミートパッキン(14丁目)にあるサリーハッシュバーグという超有名ヘアサロンで働いていてカットが$175もする。もちろん坂本家はタダで切ってもらっている。正確にいうと坂本家での食事とトレードしているのである。普段はカッコイイお兄ちゃんなのだが酔うとアンタッチャブルの山崎のような口調になってきて「勘弁してくださいよー。」と連発するただの酔っぱらいのオッサンになる。

さらにしばらくすると、また近所に住んでいる吉平夫妻がバケツに水いっぱい入れてやって来た。吉平ケンジ&ノリコ氏は坂本家が以前に住んでいたアパート(ルーズベルトアイランド)に越して来た夫婦である。ケンちゃんは東大在学中にヤフージャパンの立ち上げに協力し、著書も数々出版し、日本で就職していたがニューヨーク大学院大学院のコンピューターサイエンス科に入学し科学者になるためにニューヨークに来た。平たく言うと、かなりのオタクである。ノリコ2(私には既にノリコさんという友人がいたのでノリコ2と呼んでいる。)はガラスの芸術家である。ケンちゃんはニューヨーク大学院を無事卒業しコンピューターサイエンティストとして就職し、何やら発明をしているらしい。ケンちゃんとは共同でインターネットのドメイン&ホストサーバー会社のリテイラーをしたり、ウェブデザインの仕事が入った時はプログラマーとして手伝ってもらっている。完全におんぶに抱っこ状態ではある。

この3人とは特に仲が良く、まあ香川県にいるころから宴会好きだったため、事ある毎に良く宴会をしていたので、たぶん、坂本家にいけば、何かオモシロい事をしているに違いない。ぐらい思って来たのであろう。

さてこれから何日続くのかわからないブラックアウトだが、ニューヨークなので最悪でも2日ぐらいで普及するだろう。ということで、とりあえず冷蔵庫でまだ冷えているビールと食料を持って、川沿いの木陰で宴会をすることにした。女性達は汗をかくのがイヤだと言って部屋に残った。外に出ると、すでにそこら中で宴会をやっていた。しかしこれほどリラックスできた宴会は経験がない。なぜなら停電なので、当然仕事ができない。しかもクライアントも仕事ができない。なので、電話もかかってこない。メールだって出来ない。明日どーするという心配をする必要もない。さらに普段よりもなんだか涼しい。エアコンが止まっているのであの暑い外気が出ていないので体感温度が下がっているのだろう。「ブラックアウト万歳!」なのである。

「このまま続けブラックアウト!」ぐらいの勢いで飲んだくれていたのであるが、どーやら楽しい停電の時間も終わろうとしていた。だんだん外が薄暗くなり、そろそろ宴会もお開き。トモと吉平家も明るいうちにアパートに帰らなければいけないという事で帰宅。そして夜の9時ぐらいに遂に電気が復活してしまった。

次の日から何事もなかったかのよーに、いつもの毎日に戻ってしまった。

 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 13「常磐通信・第13号」
 
 
 
香川県人には堪え難い冬のニューヨークとは反対に、夏のニューヨークは最高に快適である。なんといっても湿気がない。さらに蚊もほとんどいない。しかしアメリカ人にとっては大変暑いらしい。エアコンはどこも最強に設定してある。

2003年の夏は確かに例年よりも暑かった。
8月14日の午後4時過ぎ、いつものようにスタジオでせっせとリタッチしていた私と同僚タイラーのコンピューターの電源が突然落ちた。実は2日程前にもブレーカーがとんだので、またかと思っていたけど、配電盤をいじっても電気はつかなかった。
タイラーが「ラジオをつけたほうがいい」とラジカセに電池を入れてニュースを聞く事にした。

「ブラックアウト」らしい。ニューヨーク中が停電になった。

以前から電力の供給が追い付かない状況だというニュースを聞いていたので、さほど驚きはしなかったが、本当に停電になるとは思わなかった。…いや、むしろ街中が停電というマンガぐらいでしかありえない状況に置かれている自分が楽しくてしかたなかった。

まずは外に出た。SOHOで一番広いストリート・ブロードウェイは信号が消え、さらに混雑を増していた。交通手段を失った人々が歩いて帰宅していた。が同時多発テロを経験しているニューヨーカーは的確な判断でパニックになることなく余裕のようであった。

スタジオに戻りしばらくラジオを聞いていたが復帰のメドが立たないと知り、タイラーは早々と帰宅宣言。ブルックリンのアパートまで1時間、歩いて帰ることにしスタジオを去った。
もう一人の同僚アイリーンはとりあえず近くで働いている妹ウェンディーと合流するためにスタジオを出た。アレックスは屋上で昼寝をすると行って消えた。私も帰るべきかと悩んだのだが、家までどう見積もっても歩いて3時間はかかる。ということでスタジオに泊まる事に決めた。
しばらくしてアイリーンがウェンディーを連れてスタジオに帰って来た。そして、みんなで屋上に行き、夕日が沈むのをぼーっと見ていたが、暇過ぎてオモシロくない。ということで夕食を買いに出かけた。しかし重大な問題が発生した。停電したのでクレジットカードが使えない。さらに現金を引き出そうにもATMが動かない。ニューヨーク全体が現金商売になっていたのだ。自分たちの所持金をかき集めてなんとか食料を調達し、屋上で早めの夕食を取る。冷蔵庫に入っていたビールやワインも一気に飲むことにした。

夜になってラジオでニュージャージーまで無料で臨時フェリーを出すことを知ったアイリーンとウェンディーが帰宅を決意した。ウェンディーが同じ服を着て次の日も仕事をしたくないという理由で決断したらしい。バナナ数本と水を2リットル持ってスタジオを後にした。もう夜の8時を過ぎ辺りも暗くなっていた。アレックスも自分のアパートに帰宅し、私だけがスタジオに残った。

しばらくすると向かいのビルの屋上で映画を壁に映写し始めた。ノートブックをプロジェクターに接続しているのだろう。窓際に座って音の聞こえない映画を観た。映画は何故かブラッドピットの「ファイトクラブ」だった。しかし、いいい所でバッテリーが切れて終わってしまった。電気がないと何もできる事はなかった。もはや寝るしかなかった。薄暗いろうそくだけのバスルームでシャワーをして革張りのソファーにタオルをかけてべとつかないようにして寝た。

翌朝6時半に起床。朝の混雑していない時を帰宅時と決断しアイリーンが残していったバナナ2本とスプライトを1缶を持っていざ帰宅。しばらく歩いていると、遠くにバスらしきものを発見。しかし車が通ってないのと信号がないので、バスが動いているかどうかさえ確認できない。がどうやらこっちに向かって動いているらしい。運良くバスに乗れた私は一路 59丁目のクィーンズボロブリッジの入り口まで目指したのである。

23丁目あたりから、昨日帰れなかった人がいっぱいバス停に並んでいた。ミッドタウンは人で溢れかえっていた。私は59丁目で下車し、クイーンズボロブリッジを徒歩で横断するべく橋へ向かった。橋に着くとすでに沢山の人が橋を歩いて渡っていた。いつも車であっという間に渡っていたクイーンズボロブリッジは思いのほか長く、橋を渡りクイーンズまで辿り着いたが、もう家まで歩く体力はなかった。最後は偶然通りかかったタクシーをつかまえ、ポケットに入っている現金で交渉し、家まで送ってもらった。

スタジオを出て2時間半後に帰宅した。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 12「常磐通信・第12号」
 
 
 
10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、A HAPPY NEW YEAR 2009

 

NYの正月はタイムズスクエアの恒例のカウントダウンで始まる。

といってもアメリカの正月休みは元旦だけである。大晦日も仕事、年始は2日から、と正月気分など実はまったくない。日本がとっても羨ましいのである。

 

 

朝7時10分起床し、7時35分に家を出る。

我が娘キナリを小学校に連れて行くためだ。日本のように「行ってきまーす。」とこども一人で通学させれば親は逮捕される。 ニューヨークでは11歳未満の子供をひとりにしてはいけない、幼児虐待で捕まるのだ。

同時多発テロの回で少し触れたが、キナリはマンハッタンの小学校に通っていた。小学校2年生まで近所の小学校に通い、3年生からグリニッジヴィレッジにあるPS3という小学校に転校させた。PS3とはパブリックスクール3、公立第3小学校、てな感じである。なぜ転校させたかというと近所の学校はちょいとイマイチ。転勤で2~3年で日本に帰るのであればそれでも良いのだが、良い中学に入れさせたいなら小学校も選ばなければいけないのだ。ニューヨークも日本も教育事情は表面は良くにている。

ニューヨークの学校は公立でも同じ事はやらない。学校によって授業内容も異なり雰囲気も違う。日本のようにシステマティックな学校もあれば、個性的な授業をする変わった学校もある。PS3は元消防署が学校になった赤い扉の古い建物で、アートの授業が多く、1年生と2年生、3年生と4年生と2学年が同じ教室で一緒に勉強するという変わったシステムであった。人種も程よくミックスされていて、生徒の親もアーティストやクリエーター、中にはゲイの両親もいたりと、全く偏見のなさそーな環境であった。通学もスケボーで行こうがローラーブレードで行こうがなんでもありで、他の小学校では禁止だったがPS3は自己責任でおかまいなしであった。そんな軽い小学校であったが600校以上あるニューヨークの公立小学校の中で成績が17位という自由奔放だけどやる事はやってるという校風が私好みであった。

電車に乗ってウエスト4丁目まで25分、駅の構内で太鼓をポンポコ叩いているドレッドヘアーの黒人のお兄ちゃんに1ドルをあげる。駅から歩いて15分。子供と一緒なのでそれほど速くは歩けない。グリニッッジヴィレッジのクリストファーストリートを歩きハドソンストリートまで行く。クリストファーストリートにはゲイストリートが交差する、お察しの通りゲイ御用達のショップやバーがあり、ショーウインドウに飾られた革製のコスチュームや大人のオモチャなどを売っているお店の前を娘と歩いて行く。ハドソンストリートに近づくにつれて古い良き時代のニューヨークのタウンハウスが立ち並ぶ閑静な高級住宅街になる。のではあるが、突然ションベン臭くなる。まあ流行とはいえやたらペットを飼っている地区なのか犬の散歩をするのはいいが、そこらじゅうでオシッコをしてるもんだから、もう匂いが充満している。ニューヨークでは公共の場所で人間がオシッコをすると御用になるのに犬は天下御免である。未だに納得できない。
それよりも大変だったのが冬だ。地球温暖化で最近の冬は暖かいが6~7年前までは寒かった。マイナス20度とかざらで、顔が痛い、息をすると喉が痛い。吹雪の日など目が開けれないのでゴーグルをして歩いた。冬になるとファッションでジッパーを閉めずにダウンジャケットを着るぐらい暖かい香川県に帰りたくなったものだ。

授業内容が異なる公立小学校からどーやって中学校に入るかというと、一斉テストなるものがあって、そのスコアで入れる中学校が決められる。その中から5校を順位をつけて選び提出し、その中から入学の承諾をされた中学校に行く。
親の私がいうのもなんだが、我が娘キナリは、どーいうわけか頭が良い。英語もわからないままニューヨークに連れて来られ頑張るしかなかったのか、それともバカな父親を見て将来が不安になったのか。塾にも行かず、バレエばかりして、家ではダラダラしている娘なのに…未だにナゾである。一斉テストの結果キナリはLABというニューヨークでトップの公立中学を受験することになった。入学試験があるのはこの学校ぐらいだった。いつものよーにヘラヘラと受験に行き、面接をした。

結果、落ちちゃった。しかし、ここからがアメリカである。

アピールができるのである。日本流でいうとクレームをするのである。「私の娘は一斉テストの成績もよく、学校の評価も高かったのに、なぜ落ちたのか理由を説明しろ。」というレターを出した。このアピールが出来る期間もちゃんと定められていて、期限内にレターを提出しないと認められないのだ。こういう情報を収集できるかどーかで子供の人生も左右するのである。さすが我が妻ユキ殿である。完璧主義者。

で、結果アピールが認められ「合格」しちゃいました。

ともあれニューヨークのトップ公立中学に入学したキナリは年齢も12歳になり1人で通学するようになり、私も苦悩の日々から解放されたのである。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 11「常磐通信・第11号」
 
 
 
ワールドトレードセンターの燃えた匂いは、電線が燃えたような、いやビニールシートを貼ったままの新車の匂いが強烈になったような、吸い続けると間違いなく身体に影響が出るだろうという悪臭だった。そんな燃えかすの匂いがまだ立ち込めるダウンタウン、ソーホーのロフトにアレックスカオのスタジオがあった。
私はトーマケンジのスタジオでレタッチの経験をしアレックスのスタジオで働き出すことになった。
アレックスは私よりも4つ年下ではあるが、ビジネスの才能のあるコマーシャルが分かるカメラマンである。アートディレクターだった私にはとても分かりやすい考えの持ち主であった。
アレックスは元々ソーホーにスタジオがあったわけではない。最初は38丁目と6アベニューにある小さな雑居ビルの4階のそれほど大きくない1フロアをアーティストと共同で月$1,200(約13万円)ほどで借り、そこでせっせとファッション雑誌の物撮りの撮影をメインでしていた。

アメリカでのコマーシャルフォトビジネスはエージェンシーが仕事を獲って所属するカメラマンに依頼する。基本的にカメラマンは営業や接待などという面倒な事はしなくてよく、良い写真を撮ることに集中できる。カメラマンの売り込み、営業等は全てエージェンシーがしてくれる。クライアントは広告写真が必要な時はエージェンシーに依頼する。有名なエージェンシーに入ることがカメラマンとしての成功といっても過言ではない。
アレックスもウィンストン・ウエストというエージェンシーに所属していた。そしてソーホーにスタジオを移したことによってエージェンシーも彼を売り込みやすくなり、さらに今まで滅多に顔を見せなかったヴォーグやインスタイル等のファッション雑誌のエディター達もスタジオに顔を出すようになった。広告のクライアントもソーホーのスタジオならと足を運ぶようになった。アレックスはエージェンシーのみならずエディターやクライアントからも知られる存在になっていったのである。
家賃は一気に$4,500(約480,000円)になったがソーホーにスタジオがあるというステイタスはアレックスの評判を急上昇させた。

私はアレックスの撮影した写真のレタッチをしていたわけだが、当時はそれほど上手くはなかった。そこでフリーのレタッチャーを短期で雇い、彼等からテクニックを盗んでひたすら勉強した。リタッチは大学の写真学科でも基本しか教えてくれない、学位のない分野なのである。本格的なレタッチを学ぶためには現場のスペシャリストと一緒に働くしかないのだ。毎年湧いたよーに大学や専門学校を卒業して社会に出るグラフィックデザイナーやウェブデザイナー達、ある意味使い捨てのような環境の中、高度なリタッチ技術を持っているという事は有利である。又、広告デザイン全ての知識に精通していなければならないアートディレクターとして、写真への深い理解と知識があるという事、さらにニューヨークで活躍している一流のカメラマンとコネクションがある事も将来必ず役に立つだろうと思った。今では私がお願いすれば快く撮影をしてくれるNYの超一流のカメラマンが何人かはいる、人脈は宝である。

さらに思いがけない嬉しい事が私に起こった。ケンジトーマのスタスタジオで働いていた時に知り合ったトーマさんの所属していたエージェンシーで働いていたジョナサンリーダーという営業が独立し、新しいエージェンシー「アポストロフィー」を立ち上げ、アポストロフィーのウェブデザインを私に依頼してきた。
2001年当時、一般的にエージェンシーはクライアントに直接カメラマンのポートフォリオを持って行き担当者に見てもらう。クライアントは何人かの候補の中からカメラマンを選ぶ。というのが常識だったが、ジョナサンはカメラマンのポートフォリオを全てウェブサイトに載せてクライアントにウェブサイトで作品を見てもらう。候補が絞られた段階でポートフォリオをクライアントに送る方法を考えていた。今日ではあたり前のような事であるが、当時は画期的であった。他のライバルエージェンシーも勿論ウェブサイトは持っていたが、ちょっとした会社の情報やカメラマンの代表的な作品のみを載せているだけであった。アップデートも半年に1度程度だった。
ジョナサンの試みは見事に当たった。アポストロフィーは瞬く間に有名になった。ウェブサイトを有効活用したエージェンシーの先駆者になった。

そして2002年のある日、ジョナサンから電話がかかってきた。
「ヒロキ、アポストロフィーのウェブサイトが2002年度の年間ベストフォトグラフィーウェブサイトに選ばれたよ。授賞式行くかい?」
ジョナサンがコンテストに応募していたのである。賞を受賞するとか応募するとか、今まで考えた事もなかった私には新鮮でとても嬉しかった。何より、アメリカで私のデザインが評価されたことが素直に嬉しかった。ニューヨークで頑張って来た事が全て報われた気がした。そしてこの賞をきっかけに、ウェブデザインの仕事が舞い込んでくるよーになったのである。

ジョナサンありがとう。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 10「常磐通信・第10号」
 
 
 
「もっちゃんは田舎のお坊ちゃんだからね…。」とニューヨークに来てから言われたことがある。私は確かに田舎者だ。いや、NYに来てむしろ郷土愛が大きくなっていると言っても過言ではない。が「お坊ちゃんだからね…。」と言うのは聞き捨てならない。たぶん「正直過ぎる。」とか、「世間知らずだ。」という事を言いたかったのであろう。

「田舎のお坊ちゃん・もっちゃん」は次の日、移民局から送り返されてきた永住権申請のパッケージを持って日本人弁護士のもとへ行った。

結論から言うと「人間の顔色というのは、ここまで一瞬にして変わるものなのか。」というぐらい一瞬で土色に変わった。表情もロウ人形のようになっていた。そして書類を出し忘れていたことを認め謝罪された。ここまで証拠が揃うとグーの根も出ないよーであった。

とにかく、もうすぐ労働ビザが切れるにも関わらず、しかも永住権の申請書類が送り返されているこの状況を好転させなければいけない。まずは、労働ビザの延長手続き、次に返却された永住権の書類を訂正して出し直す事が先決である。がこの日本人弁護士が突然「坂本さんのこの永住権の申請は受理されない可能性があるので、諦めたほうがよい。理由はKnowExとMIGとの関係がややこしいので、保証はできない。弁護士会の弁護士に相談したところMIGのスポンサーでは永住権は出ないだろう。なので新たに永住権を申請した方が良い。」と言ってきた。弁護士が問題ないということで進めていた永住権の申請を、この状況で当の本人にひっくり返された。私は至って冷静に対処した。「それではアレックスから出した永住権がある、今労働局からの許可を待っている段階ですが、現在の状況はどーなってますか?」ん?待てよ…もしかしてと思い「すみませんアレックスから出した永住権申請の書類のコピーを見せてください?」と尋ねた。少々お待ちくださいと席を立ち、しばらくして手ぶらで戻って来た。「すみませんコピーが見当たりませんでした。」と弁護士が言った。「…コピーないんですか?本当に申請したのですか?私は求人広告にお金だしましたよね。労働局に申請したとも言ってましたよねー。」確かにKnowExの時と同じ事をアレックスの会社でやるだけの事だったので私も確認を怠ったのも確かである。ちゃんとコピーを手に入れるべきであった。がすでに証拠もない。弁護士はその事も頭にいれ「本当に出しました。労働局にどーなっているのか確認とらないといけませんね。」と言い張っている。そんな事は労働局からの返事が来るか来ないかでいずれ証明されるだけのことではあるが。もうこんな書類のコピーも取らないようなガサツな弁護士に頼んだ私も悪い、この頃には弁護士の言い訳が逆にオカシクてしかたなかった。気が付けば私はこのダメ日本人弁護士にとくとくと説教をしていた。仕事の段取りから、時間の管理、弁護士に依頼する人達の状況と、弁護士の責任と、たーっぷりと教えてやった。

しかし「私の怠慢で坂本様のお金と時間をムダにしてしまった事を深くお詫びするとともに、今までかかった弁護士費用をご返却させていただきます。」なんて事にはならなかった。そんな誠意ある弁護士ならとっくに永住権を取得しているであろう。結局、移民局が受け取らずに書類を返して来た理由になった「申請料をお返しします。」というだけであった。「訴えてやろうか、この日本弁護士。」と思ったが、それよりも坂本家をどーにかしなくてはいけない状況である。
この期に及んで、この弁護士に新しい永住権の申請をお願いするほど「田舎のおぼっちゃま。」ではない私は弁護士が持っていた坂本家の書類全ての返却を要求し新たな弁護士を探すことになった。

まず今の状況を永住権のスポンサーであるMIGの社長グレンに話をした。グレンは激怒した。「どーしてMIGのスポンサーだと取れないのだ~。」となり「オレの知り合いの弁護士に聞いてみる」という話になった。このグレンという男2000年ごろはIT会社の社長であったが、それから弁護士にもなっていたのだ。しばらくしてジョン・シエというチャイニーズ弁護士が来て「そんな事はない、普通に取れるだろう。それよりも労働ビザの延長を急がなければいけない。」というとてもまともで筋が通っている、私の望んでいる答えが返って来た、日本人でもないし、グレンの知り合いだという事もあり、このコロンビア大学卒、ニューヨーク大学ロースクール(法律学校)を卒業したチャイニーズ弁護士ジョンに任せる事にした。そしてあっという間に労働ビザの延長手続きをし、返却された永住権の書類を訂正して移民局に送った。

これでとりあえず坂本家は合法的にアメリカに約1年は確実に住めることになったのではあるが、このままハッピーエンドになるはずもなく、怒濤の「ジョンナランNYグリーンカードへの道その3」につづく。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 09「常磐通信・第9号」
 
 
 
アメリカ人と結婚、もしくは転勤でやって来ていずれ日本に帰国する予定の人、または、くじで永住権が当たった人達以外のアメリカに住んでいる日本人の大半が苦労して手に入れなければならないもの「ビザ」。
いくら才能があっても、いくら努力しても、それがないと、何も手に入れる事も、報われる事も許されない、外国人の宿命「ビザ」。

今回のジョンナランNYは「番外編・じょんならんグリーンカードへの道・その1」をお送りします。

日本人の場合90日以上アメリカに滞在する為には、なんらかの「ビザ」が必要になる。学生ビザ(労働は不可)、転勤者ビザ、労働ビザ、投資家ビザ、ジャーナリストビザ、アーティストビザ等いろいろある。が、これらのビザには有効期限があり、更新する毎に資料提出義務、弁護士料、手数料などが発生する。そしてアメリカで最も自由に活動出来るビザが永住権、またの名を「グリーンカード」である。

例えば私のようにデザイナーから出発すると、まずは会社に就職して「労働ビザ」を取得し、有効期限3年+1回のみ更新可3年の計6年間の間に「会社がスポンサーとなり雇用の必要なグリーンカード」を申請し取得する。これが会社員として永住権まで辿り着く、最もスタンダードな方法である。

以前にも書いたように、アメリカで就職が決まったわけでも、永住権が当たったわけでもなくアメリカにやって来た「考えなしの坂本家」は、「人生ゲーム」でいうと、まさに「ふりだし」からのスタート「学生ビザ」であった。しかし1年半後にあっけなく就職が決まりビザスポンサーを得て「労働ビザ」を取得した。

それからどーなったかというと、入社1年後の2000年にKnowEx Solutions, Inc.に永住権のスポンサーになってもらった。労働ビザ申請をお願いした日本人弁護士に永住権もそのまま依頼する事にした。

永住権はまず会社が求人広告を出し、何人か面接をした後「やはりヒロキが良い」と判断したという事で「永住権のスポンサーとして私を雇用したいので許可をくれ。」と申請し、受理されるまで待つ。ここで約2年。許可が出ると、移民局に労働許可証と新たな書類を申請し、受理されれば面接をして永住権を取得。という流れになる。

さて、これであっさりと永住権ゲットでゴーーール。となれば、わざわざジョンナランなどというタイトルを付ける事もない。ジョンナランNY愛読者ならピンときた方もいるでしょう、そう、KnowEx Solutions, Inc.がなくなってしまったのです。永住権の申請中にそのスポンサーを失ってしまったのです。しかし、実はその後KnowEx Solutions, inc.はMIG(Millenium Information Group, Inc.というIT会社に吸収され、私はMIGの社員として永住権のスポンサーを合法上MIGに変更し継続できるようにした。(実際はMIGで働いているわけではない。あくまでも紙面上)。さらにKnowEx Solution, Inc.の閉鎖後から働いていたAlexCao(アレックス)にスポンサーになってもらい2003年にもう一つ永住権申請をした。これで万が一KnowExのスポンサーが上手くいかなかっても、アレックスがスポンサーの永住権が取れるという事になった。この一見上手くいったような状況が、実はとんでもない事態になっていくのである。

月日が流れ2004年10月にやっと労働局から許可が出た。そして移民局に申請し結果を待つだけとなった。弁護士の話では8ヶ月ぐらいで結果が出るとのことであった。
2005年。1999年に取得した「労働ビザ」も6年目の最後の年になった。しかし永住権の返事は全く来なかった。私は状況を把握するために弁護士に連絡を入れ、弁護士が確認を取るということで返事を待つ事になった。それから1週間後、移民局からパッケージが届いた。中身はKnowExがスポンサーの永住権申請の書類だった。レターには「受け取った小切手の金額が正しくないので訂正して送り返せ。」という内容だった。永住権申請書類が受理されていなかったのだ。さらに驚くべき事に申請した日付が弁護士に連絡を入れた次の日になっていた。この書類は2004年の暮れに提出したはずのものだ。しかも書類のサインも日付も2004年に私がしたものではなく、弁護士が私のサインを勝手に書いて申請していたのだ。実はこの弁護士は労働局から許可が出た後に出す移民局への申請するのを忘れていて、私の電話で思い出して慌てて申請したのだ。しかし不備な点があった時の書類の送り先を弁護士事務所にするのを書き忘れていたために、申請者である私の住所に送り返されたのである。私は弁護士にダマされていたのである。しかも日本人に。

私はすぐに弁護士にアポを取り会う事にした。もちろん弁護士は私の元に書類が帰って来ていることなど知らずに…。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 08「常磐通信・第8号」
 
 
 
KnowEx Solutions, Inc.がクローズし、新たに仕事を探さなければいけなくなった私は、 Alex Cao(アレックス)というカメラマンのスタジオでレタッチ(写真の合成)の仕事とすることにした。ディレクターとしてもNYで写真の知識とコネクションを得るチャンスでもあった。
しかしプロフェッショナルな技術がなかった私は、少しの間「トーマケンジ」というシャネル、ハイネケン、HPなどの仕事を手掛けるNYでも五指に入るスティルライフ・カメラマンのスタジオでしばらくレタッチャーとして修行することにした。トーマさんとは20年前日本で実は仕事をしたことがあった。トーマさんはファッション系カメラマンとして日本で既に成功を納めていて当時私の働いていたデザイン事務所が高松フォワイエのTV-CMの仕事で東京のプロダクションを通してトーマさんに撮影の依頼をしたのだ。ひょんなことからNYで再会し、さらにしばらくご厄介になることになるとは不思議な縁である。

トーマさんのスタジオは想像を絶する忙しさでアシスタントなど簡易ベッドで泊まり込むこともあるほどであった。私はディスカバーカードというクレジットカードのキャンペーンプロジェクトの写真レタッチのアシスタントとして働くことになった。仕事が終わるのは毎日12時は過ぎ、仕事もどこか日本で働いているような気分であった。

9月10日、約2週間かけて、やっとディスカバーカードの仕事が一段落した。終わったのは日付が11日にかわった午前2時だった。私の仕事は次の日はなく久々に休みをとることになった。

9月11日、いつもなら、毎朝7時に娘のきなりをマンハッタンのウエストヴィレッジにある小学校に連れて行っていたのだが、帰宅が遅かったのと仕事が休みということで、その日はユキ殿(妻)がきなりを連れて行ってくれ、私は熟睡していた。

「もっちゃん、起きて、大変やで。テレビ見て。」とユキ殿に起こされた。

テレビの向こうでワールドトレードセンターが燃えていた。

ユキ殿によると、きなりを送ってルーズベルトアイランドの駅に着いてバスを待っている時に、マンハッタンの上空を低空飛行している飛行機を見て「えらい低く飛ぶんやなー。」と不思議だったらしい、それから飛行機のことなど気にも止めずに1階のランドリーに洗濯に行った。ランドリーで居合わせた人に飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んだことを聞かされ「あの飛行機だったのか。」と慌てて部屋に戻って私を起こしたのでそうである。

ユキ殿と私が興奮して、この不慮の飛行機事故の様子をテレビで見ていた時、2機目がもう一つのワールドトレードセンターに突っ込んだ。最初は飛行機が激突した様子をVTRで見せているのだと思った。しかし隣のタワーからも煙が出ている。「たった今、中継中に突っ込んだのだ。」。飛行機が2機ツインタワーに事故で激突するはずがない。
「これはテロだ。」との発表があった。

それからペンタゴンにも激突、ペンシルベニアには墜落したと発表があった。テレビではブッシュ大統領が「これはテロリストとの戦争だ。」とか言いだした。これからどーなるんだ、ワールドトレードセンターの火災はいつ消えるのか。テレビの向こうで大変な事が起きている。でもそこは家から電車で30分のところで起きていることなのである。

そしてツインタワーが崩れ落ちた。

正直、廃墟ビルを爆破で取り壊す、あの映像のように見事にツインタワーのその敷地内に崩れ落ちて、ぺっちゃんこになった。 そして爆風のような白煙とコンクリートのカスがストリートを駆け巡っていた。火災がいつ消えるのか野次馬のよに群がっていた人々がいっせいに逃げ出していた。ワールドトレードセンターから2ブロックのところにあった前の会社KnowExがまだクローズせずにあったなら、野次馬な私は完全に巻き込まれていたであろう。
まさか崩れ落ちるなど、誰が想像しただろうか。ワールドトレードセンターの周りからトライベッカ辺りまで、大変な事になっているなと容易に想像できるほどの状況。そして、こんな非常事態になるとは想像もしていなかった私達はマズい事になってしまったことに気付いた。

きなりが小学校にいる。しかもマンハッタンに、取り残された。

時すでに遅し、電車もバスも全ての交通手段が第2の爆弾テロ攻撃に備えてシャットダウンされた。きなりを迎えに行く方法はない。電話回線も大混線になり連絡をとることもままならなくなってしまっていた。

結局なんとか子供がきなりと同じ学校に通っているマンハッタンに住む友人に連絡を取ることに成功し、きなりは友達の家に泊まることになった。次の日の早朝、私達はきなりを迎えに行った。
きなりの話によると、マンハッタンは民族大移動のようにワールドトレードセンターのほうからホコリをかぶった真っ白な人達が歩いていたそうである。きなりも、もちろん交通手段などなく友人達と47丁目まで約40ブロック歩いたのだそうだ。実際にテロを体感したのはテレビを見ていただけの私達ではなく娘だった。

そして何日か経ってきなりの学校はワールドトレードセンターの近くにある小学校の生徒や先生を受け入れて、新しく再開した。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 07「常磐通信・第7号」
 
 
 
紆余曲折ありながらも、ニューヨークでなんとか生き延びてきた坂本家、そして私の働くHigh Tech Style, Inc.も新しいチャプターに突入、High Tech Style, Inc.はセールス&マーケティングの強化を進める事になる。

CEOにジム・マクガン(アイルランド系アメリカン)どこかのIT企業で成功を納めたらしい爽やかなヤッピーオッサン。このころは猫も酌しも「CEO」が流行っていた。
セールスに トム・マーティン (アイルランド系アメリカン)、 サタン・ウィーラー(アイルランド系アメリカン)、ジョエル・ペントランド (アイルランド系アメリカン) 、ジーナ・ファルグノリ(イタリア系モロカン)。
マーケティングに アリソン・チョイ(コリアン系アメリカン)このころ破竹に勢いで大躍進をしていたAOL(アメリカンオンライン)からやって来た、ドラゴンボールのヤジロベーにそっくり。
テクニカルライターにマイク・ヤング(アイルランド系アメリカン)西海岸生まれのマニュアル専門ライター。白い歯のスマイル命のヴァンヘイレンな男。
いきなりこんなに沢山雇って大丈夫なのかと思ったが、さらに社員が増えたので同じビルの1フロアー全てを借り会社のスペースも拡張してしまった。

スーツ軍団は連日ミーティング。そして何やら結論が出た模様で一大発表。
「社名を変える必要がある。」&「ソフトの商品名を変える必要もある。」とのこと。
ようは「High Tech Style, Inc.という名前がアナログだ。」「I Chat Shop」という商品名がオモシロくない。という事だった。

そしてスーツ軍団の考えた名前は新社名「KnowEx Solutions, Inc.」商品名は「KnowEx」。
KnowExとはKnowledge+Exchange「知識+交換」でノーエックスソリューションズ。
私はHigh Tech Style, Inc.とあんまり大差ないのでは…と思ったのだが、スーツ軍団は口八丁手八丁で盛り上げる。既に成功したかのような喜びよう。アメリカ人は恐ろしくポジティブである。

ということで、私はまた一からロゴマークからウェブサイトまで作り直すことになった。
「なんじゃそれ。」
半年もかけて作ったキャッシーの High Tech Style, Inc.のウェブサイトの命は制作時間よりも短かかった。
ソフトウェアのインターフェイスもダサイ。ということで、それもデザインする事になった。
さらに 全米の見本市(エキスポ)への出店、ホテル等でのデモ用のセールスツールも必要だということでパンフレットだのなんやかんやと制作しなければいけなくなった。

そして2週間でKnowExのロゴからウェブまで完成させて心機一転・再スタートを切る。

しかし私の忙しさとは対照的にスーツ軍団はヒマそうであった。午前中はなにやら営業の電話をしているようではあるが、3時頃になると既に仕事をする気がないようで、私達の所にやってきては、あーだこーだとひとしきりおしゃべりをしにくる。中には帰ってしまう奴もいるのである。マジか…コイツら。
案の定KnowEx Solutions, Inc.は1年が過ぎた2001年夏になっても何も変わる事はなかった。

そして今度は投資家達が集まってミーティングを開始した。

「CEOジム・マクガン更迭。」そらそーやろ。それでも1年間雇ってもらっただけでも奇跡に近い。クビになっても爽やかだったジム。もしかして前の会社もクビになったのでは…。
新しいCEOには投資家の一人であるネルソン・リーが就任した。

そして毎週のようにクビになったり去ったりしながらKnowEx Solutions, Inc.は縮小していったのである。アメリカンオンラインから鳴り物入りで入社したマーケティングのアリソンもクビ。たぶんアメリカンオンラインでも役に立たなかったからココに来たのだろう。理屈コネて社名と商品名を変えただけであった。
私が日本帰国で2週間バケーションを取った後、セールスはジーナを残して全て消え、私のアシスタントのシュラリまでもが遂にクビになってしまった。シュラリがクビになったところで「終わったな。」と確信し、新しい就職先を探さなければいけないと悟ったのである。

2001年8月 KnowEx Solutions, Inc.はクローズした。

そして私は新しい仕事を…。

そして2001年9月。あの事件が起きるのである。

 
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Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 06「常磐通信・第6号」
 
 
 
めでたくアメリカンカンパニーに就職が決まり、やっと本当のニューヨーク生活が始まったような気分の私であったが、浮かれてる場合でも実はなかった。

High Tech Style, Inc.(ハイテック・スタイル・インク)はブロードウェイとウォールストリートのコーナーにある巨大なイーグルの彫刻がショッカーのアジトのように入り口の上にくっついているそれほど新しくないオフィスビルだが、中は改造が施されたサイバービルディングであった。

アンドリュー・ソー(チャイニーズ系アメリカン)、ネルソン・リー (チャイニーズ系アメリカン)、メリッサ・ニジンスキー(ロシア系アメリカン)、キャサリン・パパドプロス(ギリシャ系アメリカン)、シュラリ・パテル(インド系アメリカン)、ナビール・チョーハン(パキスタン)、ポーラ・ミランダ(ホンジュラス系アメリカン)、レーチェル・ヨナ(アフリカ系アメリカン)。
ソフトウェアの開発会社だけあって若くて人種に偏りのない働きやすい会社であった。
そして私のデザインデパートメントにはキャサリン・パパドプロス(アートディレクター)、ナビール・チョーハン(コーダー)、シュラリ・パテル(ジュニア・デザイナー)と私(グラフィックグラフィック・デザイナー)の4人で、まずは会社のビジュアルアイデンティティからウェブまでを一から制作することから始めた。

「何言ってるのかわからない…。」

やはり語学クラスを出た程度では実践では使えなかった。特にナビール・チョーハン。パキスタン人の彼の英語は訛っていて聞き取れない。かといってパキスタンでは英語はほぼ公用語なので私以外の人間にはハッキリと通じるのだ。私はキレイな英語にしか慣れていなかったのだ。
次にシュラリ。19歳の彼女は「早口過ぎて何言ってるのかわからない…。」それにティーンエイジャーの会話はさっぱりわからなかった。
しかし私はキャサリンに救われる事になる。彼女は教えるのが好きなようで私に分かりやすく話を根気よくしてくれた。
キャッシー(キャサリン)に助けられながらも何とか仕事をしていたのだが、そのキャッシーがその後トラブルを起こす事になる。

キャッシーはアートディレクターである。故にデザインデパートメントのリーダーである。ボスのアンドリューが言うには「彼女はメジャー放送局ABC放送のウェブをデザインした。」らしいが、彼女の作ったHigh Tech Style, Inc.のロゴマークはお世辞にもナイスデザインとは言えなかった。まあそれは個人の趣味の問題だし彼女のメインの仕事はウェブデザインだったので私とは関係がなく、私は彼女の作ったロゴでビジネスカード、ステーショナリー等ビジネスに必要なアプリケーションを作成するのが仕事だったので割り切っていた。
しかし3ヶ月が経ってもキャッシーはまだウェブサイトを完成させていなかった。さらに2匹の子犬を購入して、その子犬達を毎日オフィスに連れて来てオシッコシートの上で飼っていた。
そしていつしか私の中で疑問が湧いて来たのである。「もしかしてキャッシーはABC放送のデザインのヘルプをしただけで、実際は作ってないのでは…。」
という私も一夜漬けのウェブ知識だけで入社したのではあるが、実は毎晩ソフトの勉強をコツコツして、この頃にはかなりのエキスパートになっていた。さらにコンピューターとデザインの話であれば英語で話すのも苦にならなくなっていた。分からない事があっても誰にも聞けない状況だったので英語でもなんでも情報収集して解決するしかなかったからである。まさにサバイバル英語。

月日は流れて6ヶ月後…私はというと新しいソフトウェアのプレゼンCDを制作したり、パンフレットを制作したりと、サクサク仕事をこなせるようになっていた。まあ私の実力からして当然なのだが。肩書きもグラフィック・デザイナーからマルチメディア・デザイナーに変わっていた。

そして、遂にキャッシーが何やらへんてこりんなウェブサイトを完成させた。6ヶ月かかって怪しげなウェブを作ったキャッシーの評判も、もはや怪しくなっていた。

そしてある金曜日の午後、ボスのアンドリューが私を部屋へ呼んだ。
「キャッシーをどう思う?」と唐突に質問された。
「彼女は性格も良くてナイスだ。」と答えた。
するとアンドリューが「ナイスな奴ならいっぱいいる。」と言った。この言葉は私には新鮮だった。キツいがその通りである。
そして「ヒロキはウェブデザインは出来るのかい?」と聞いてきた。ハッ?何言ってるんだコイツ。私のウェブを見てインタビューしたのでは?というか私のこれまでのデザイン力を見れば一目瞭然ではないか。とは思ったが、アンドリューはこういう天然なところがるのだ。
「もちろん出来る。」と答えた。

次にキャッシーが呼ばれた。20分後、苦笑いをしながら部屋から出て来たキャッシーはクビになった。

次の週から私がデザインデパートメントを仕切ることになったのは言うまでもない。
さらにキャッシーと同じ責任を任された事を理由に給料を上げてもらう交渉にも成功した。

私は思った。アメリカでは給料は言い値である。金額に見合う仕事をしなければクビになる。それだけの事である。「明日は我が身」だろう、しかしクビになればビザもなくなり日本に帰らなければいけない私はどっちにしても前に進むしかないのだ。

そしてHigh Tech Style, Inc.も新しいCEOを迎え、社名を変更して前に進むことになる…。


 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 05「常磐通信・第5号」
 
 
 
「常磐通信」のオーナ−真部氏から「今回は大統領選挙について書いてくれ。」とリクエストが入った。「ジョンナラン・ニューヨーク」アメリカンカンパニーに就職した私のその後を書く予定が突然「大統領選挙話し」になるとおかしくないかい?とも思ったが、まあ、今回はコンセプトがそーいう流れになってるのかと納得していた時「ハッ」と私の妄想癖が走り出してしまった。
実は真部氏は大河ドラマ「篤姫 」を見て自分が「島津斉彬(しまづなりあきら) 」と思い込んでしまった。そして私は異国にいる日本人「ジョン万次郎」。で「異国の大統領選挙の様子を余に聞かせよ。」ということでこーなってしまったに違いない。真部氏は生まれ育ちは香川県だが元をたどれば九州の出だとチチ真部氏から聞いた事を思い出し、一人で妄想の中でジョン万次郎となり快く「大統領選挙」ネタを書く気になった。

いきなり現在の大統領選挙がどーなっている、という話をする前にアメリカ大統領選挙のシステムをざっくりと説明すると
1)国民による予備選挙(スーパーチューズデイ)で大統領候補を決める。
2)全国党大会で最終的に候補者を選出する。
3)各党候補者によるテレビ討論会
4)国民による本選挙で大統領選挙人を選出
5)大統領選挙人の投票により大統領が決定

実はアメリカ大統領は国民の直接投票では決まらない。国民投票により各州ごとに割り当てられた人数の大統領選挙人を選び、大統領選挙人が国民に代わって大統領を決定する。例えばニューヨーク州は大統領選挙人が31人、ニューヨークの国民投票で民主党候補が過半数を獲得すれば、民主党候補が31人の票を獲得する。これが少しおかしいところで2000年のブッシュ対ゴアでは国民投票数はゴアが勝ったにも関わらず、大統領選挙人数はブッシュが多く取りブッシュ大統領が誕生するという矛盾が起こった。

今回の大統領選挙は現在はどの段階かというとスーパーチューズデイ(予備選)の段階で、各州ごとに予備選挙が行われている。選挙日は州によって異なる。共和党は マケイン氏がハッカビー氏を抑え大統領候補になりそうである。民主党はヒラリークリントン氏とオバマ氏の決着はつかず今だ熾烈な争いを続けている。

アメリカの国会は共和党と民主党の2大政党でなりたっている。平たく言うと共和党は大企業、軍事産業、白人・上流階級層に支持された政党。民主党は大都市、高学歴者、労働者、黒人、ヒスパニック、アジア系に支持されている政党である。大都市ニューヨークは民主党支持派の州である。私も当然民主党を支持しており現在オバマ氏かヒラリー氏か?とで悩んでいるのである。ヒラリークリントン氏が大統領になればアメリカ初の女性大統領誕生になる。がオバマ氏が大統領になればアメリカ初の黒人大統領になるからだ。(オバマ氏は正確にはケニア人と白人のハーフである)
ヒラリークリントン氏は女性層、高年齢層の支持が多く、オバマ氏は黒人、高所得者の支持が多い。白人の支持は意外にも両者それほど差がない。

坂本家の女性達はヒラリークリントン氏を支持している。理由は「オバマ氏はイマイチ信用できない。大統領になってから自ら掲げた政策をするとは思えない。ヒラリー氏は健康保険問題等、大統領夫人の時に成し得なかった政策を実現させる。」という理由からである。我が娘きなりは小学生の時からブッシュはダメだ、ゴアが良いとか、あーだこーだと言っていた。アメリカでは学校でしっかりと教え体験させるのである。テストのためではない。国民の権利と義務だからである。知識だけを教え記憶させる日本の学校教育とは明らかに違うところだ。私が今回調べた事を彼女は既に全て事細かく知っていた。さらに独立戦争以前の選挙制度の事まで知っていた。独立戦争以前は黒人の1票は3/5票だったそーだ。一人では1票にはならないのだ。しかも奴隷なので文字も書けない読めない。それでどーやって大統領を選べというのか。実際は奴隷のオーナーがその票をまるごと自分の票にしていたのだ。それにしても我が娘、なぜこんな頭のいい娘に育ったのか。謎だ…。

最後に日本との決定的な違い。アメリカはどんなダメ大統領でも任期中は政策を成し遂げるために組織全体で進んで行くが、日本の総理大臣は各党の党首の中から国会で選ばれるにもかかわらず、就任後、総理大臣の政策を批判し阻止しようとする。同じ政党からも批判される。結局、誰が総理大臣になっても何も成し遂げれない。全くもってわからない。日本人は「でもね…」と批判する事により相手よりも優位に立ったと思っている。とにかくやってみる。結果を見て判断をすればよいのではと私は思うのである。だからアメリカは月に行けたのだ。

ヒラリークリントン氏もオバマ氏も、どちらも今まさに月に行こうとしているのだ。

お殿様、このぐらいでよろしゅうございますか。


 
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Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 04「常磐通信・第4号」
 
 
 
ニューヨークでの学生生活は、朝8時からクラスが始まり、昼過ぎに終了。それからアーティスト川島猛氏のアシスタントをして、夕方アパートに帰って宿題をする。意外とハードではあったのだが、この生活を1年以上続けていると、日本で12年間仕事をし、しかも毎日残業するのが当たり前だった私は、この社会&最前線から取り残された感じに少しずつ焦り始め「そろそろ働かないとヤバいかも。」という状況になっきた。そして遂に就職活動することにしたのである。

アッサリ就職決定。

誰の紹介でどーやってインタビューまでいったのか全く覚えていないのだが「Broadway Caprice」という日本のテレビ局の海外ロケを請け負う映像会社にあっけなく就職が決まった。採用理由は「私がAB型だから」である。もちろん私のこれまでの仕事も評価してくれているわけだが、なんでもその会社、社長以下ほぼ全員がAB型。さらにアメリカの会社で働きたい私はヌケヌケと「新しい仕事が決まったら、辞めますけど。」と言ったにもかかわらず「やっぱり、あなたAB型ね。採用決定。」さすがAB型ボス変わり者だ。

外国人はビザが命。

さて就職は決まっても、外国人の私はアメリカじゃーいきなり働くことはできない。「就労ビザ」が必要なのである。私は「学生ビザ」で入国したので学生しかしてはいけない。という事で弁護士に相談。

就労ビザは定員制である。ビザ発行は10月から、定員がいっぱいになれば次ぎの年の10月まで待つしかない。就職が決まってビザを申請したのが9月、通常3ヶ月はかかります。と弁護士に言われていたので語学クラスを修了してちょうど良いタイミングかと思っていたら、なんと就労ビザが1ヶ月後に届いてしまった。そしていきなり「働ける男」になった私は高い授業料を支払う必要もなくなり学生生活終了。さらばクラスメイト。

※就労ビザを申請するためには就職先にスポンサーになってもらわないといけない。優秀な人材だが、いろいろと面倒な書類手続きをしてまで外国人を雇うぐらいならアメリカ人が簡単でいいよと思っている会社がほとんどなのだ。さらに大統領がブッシュになってから就労ビザの定員数が減り取得するのが非常に困難になっている。ちゃんと大学・大学院を卒業し、就職も決まったのにも関わらず就労ビザが取得できずに帰国しなければいけない日本人や外国人が今ではたくさんいる。

就労ビザを取得し働けるようになったがBroadway Capriceでは働らくことはなかった。
何度も書いたがデザイナーとしてアメリカのカンパニーで働きたい私は就職が決まってからも就職活動をしていた。
しかしここで問題発生。1999年のアメリカはITバブル全盛期、デザイナーとしての採用資格条件に一般的なグラフィックソフトウェアの他にウェブサイトの知識と制作技術も求められるようになっていたのだ。若干時代に取り残されていた事にショックだったが、そんなことよりウェブサイト作れないと就職出来ない状況。どーするオレ。

結論:独学で勉強し、2週間で自分のウェブサイトを立ち上げる。

人間その気になれば何でもできるもので、いわいる切羽詰まらないと動かない私の性格が見事にマッチした状況。さらにアメリカ人ではないというハンディを考慮し当時はまだそれほど普及していなかったFLASHというアニメーションソフトを使ったウェブサイトを作った。そしてウェブサイトとレジュメ(履歴書)を、これまた当時はまだ珍しかったインターネット求人で約50社に一斉に送った。5社から返事が返って来て、その内の1社「High Tech Style, Inc.(新社名KnowEx Solution)」に就職した。ウォール街にあるソフトウェアを開発するカンパニーにめでたくデザイナーとして働く事になったのである。

そして、にわか仕込みのウェブサイト知識と、まだまだつたない英語力で、アメリカンカンパニーでのビジネスライフが始まったのである。
 
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John Nalan New York
Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New  York 03 「常磐通信・第3号」
 
 
 
1ヶ月のソーホーロフト居候生活にピリオドを打ち、坂本家はマンハッタンとクイーンズの間を流れるイーストリバーにポッカリ浮かんでいる縦3.2km横250mの小さな島(中州)ルーズベルトアイランドに居を構えた。やはり香川県人だからなのか、水に囲まれた環境は妙に安心するのだ。

「My birthday March 30」

太田小学校の入学式と1日目だけ登校し、ニューヨークに来てしまった我が娘「きなり」は、右も左も、ましてや言葉もわからないまま近所の公立のキンダーガーテン(幼稚園)に通う運命となった。アメリカは9月から新年度が始まるので彼女は6月までまだキンダーガーテンで、9月から小学校に入学することになるのだ。「My birthday March 30」公園の地面にチョークで彼女が最初に書いた英語。私は思い出すと切なくなるが、当の本人はというとヘラヘラと幼稚園生活をエンジョイしていたようで、苦労したのかどうかは聞いたことがないので定かではない。

「ブニが回ってきた。」

私はというと6月からニューヨーク大学のESL(語学クラス)で英語の勉強を始めた。デザイナーとしてアメリカのカンパニーで働きたい私は焦って就職活動はせずに英語を習得することにした。
とはいえ学生時代にろくに勉強してなかった私には蘇るだろう英文法も英単語の記憶もなく、さらに33歳の私には、娘のように驚異的なスピードで語学を習得できる記憶力も、もはやなかった。
私は悟った。これが「ブニ」かと。
若いときに勉強しなかった「ブニ」が33歳になって回って来たのだと。

※「ブニ」とはたぶん香川県人だけが使う方言で「決められている分量(割合)」という意味である。良くわからない方は近所のオバちゃんにでも尋ねてください。

何の悩みもなさそーなお金持ちの家に生まれた日本、韓国、中国、南アメリカ、ヨーロッパから来ているティーンエイジャー達に混じった、記憶力の低下した見た目だけ若いオッサンの私は、毎日マジメに通学し宿題もこなし必死に勉強した。私の人生で毎日ここまで勉強した記憶はない。勉強しなければ、そっくりそのまま最悪の結末が自分の人生に降り掛かってくるのだから勉強するしかった。が、勉強を始めて4ヶ月後に受けたTOEICの得点が出来の良い私の兄よりも高かったのには驚いた。やはり英語は現地で勉強したほうが身に付くのが早いらしい。しかしレベルの低いクラスから始めた私が語学クラスを卒業するまでには1年4ヶ月もかかってしまった。
正確には卒業する一歩手前でクラスを去る事になるのだが…。
 
 
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Written by Hiroki Sakamoto   
 
 
John Nalan New York 02 「 常磐通信・第2号」


   
アーティスト川島猛&順子。

高松市出身で川島猛を知らない人はたぶんいないだろう。高松を、いや日本を代表するアーティストである。香川だとイサムノグチか、猪熊玄一郎か、川島猛か。ぐらい大変なお方であり、至る所に彼の絵や彫刻が点在する。今回のジョンナランNYは少しマジメな話しになってしまいますがご勘弁を。

川島家とは日本からのちょいとした知り合いで、アパートが決まるまでの1ヶ月間、坂本家を居候として受け入れてもらったのだ。今でもとても心配してくれる私にとってはニューヨークの実家である。川島家なしでは坂本家のニューヨーク生活はなかったと言っても過言ではないのだ。

香川県人はニューヨークに来ない。

川島氏によると香川県人は極めて海外に移住しないらしい。もちろん転勤ではなく自分の意志で来る人の事だが。温暖な気候と穏やかな県民性により海外で挑戦しようと人がいないらしい。事実ニューヨーク香川県人会に登録されている香川県人は約60人である。もちろん学生など登録してないだろうが。ニューヨーク在住日本人は領事館に在留届を出している人だけでも約6万人。香川県人が登録者数の3倍いたとしてもたった200人弱。本当にいない。なので川島氏もニューヨークで住もうとする香川県人を特に応援してくれるのだ。しかも子連れで家族で来るなんていうのは香川県人以外でも川島氏が知る限り坂本家を含めて2家族しか知らないらしい。私のNY生活10年の中でも家族で移住してきたのはグリーンカードが当たって来た1組だけしか知らない。

人生で100人の友人を見つける。

川島家はソーホーのど真ん中にある100坪ほどのロフトで 三分の二をアトリエ 残りの三分の一とその2階(ロフトならでは)が住居空間の、コマーシャル化した今のソーホーではかなり珍しい「古き良きソーホーに住むアーティストの家」である。

川島家には毎日人が訪ねてくる。近所の友人、アーティスト、日本からの訪問者と、昼夜問わず絶え間なく人がやってくる。夜になるとホームパーティーが始まり夜遅くまで続くのである。なぜ川島家は毎日のように訪問者を受け入れるのか。川島氏自身の制作活動にも影響し、食費もバカにならない、ワインなんてケースで注文するほど消費する。さらに順子さんは日本からの来客のお世話やパーティーの準備に追われ川島氏ののサポートもままならない。がしかし余程のことがない限り断ったりはしない。
「一生のうちに100人の友人を作りたいんだよ。もっちゃん。凄いと思うだろう。でもなかなか出来ないんだよね〜。」
これがアーティスト川島猛の哲学である。毎日人と会うのは大変だ。しかも家に来る。さらに知り合いの紹介という方もいるので初対面の人も多い。「接客」だと考えれば正直しんどいが、その中に友人になれる人がいるかもわからないとなるとワクワクするのだろう。

川島氏の話は面白い。たまに何を言っているのかわからない事や、どう考えても理解できない事もあるが、何年か後には理解できるのだから不思議だ。本物のアーティストの生活スタイルと思想は私に大きな影響を与えた。居候先が川島家ではなく、転勤族の家庭だったら今の私のスタイルもないだろう。


 
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Written by Hiroki Sakamoto   

 

 

John Nalan New York 01「常磐通信・創刊号」 
  
 
 
まえがき

ニューヨーク10年目というちょうど良い節目に人生を振り返る事ができる機会を与えてくれた真部氏に感謝しつつも「常磐通信」創刊にあたり無謀にも私にコラムの依頼をしてきた彼の事を考えると少し気の毒になる。長くニューヨークにいると日本語かなりヤバくなっている上に言葉も若干キツくなっている。という言い訳をしながら言いたい事を書いていくことにしようと思う。


1998年4月12日、ニューヨーク着。

この日から坂本家のニューヨーク生活が始まった。本音を言うと「始まってしまった。」というのが正しかった。この先どーなるかサッパリわからなかったからだ。ただそんな事はニューヨーク行きの片道キップを買う前からわかっていたことで、日本っぽくいうと、33歳で妻子がいるのにも関わらず、仕事も辞め、車も売り、貯金も解約してまで、会話もままならない知らない国で生活しようと決めるような男に、答えが出せるわけもない。

そもそも「なぜ」ニューヨークに行くことになったのか。

私は幼い頃から「浮いていた。」疑問の余地はない。高校までの友人には「おまえ相変わらずやのー。」と言われるよーな男である。幸いにも小中持ち上がり式だったため9年間毎日顔を合わせた80人の幼なじみがいて、こんな私でも「しゃーないのー。」と受け入れてくれる友人が何十人かいる。人格が形成される前にすでにクラスにいたのだから、ある意味「受け入れざる終えない」「兄弟」のよーな状況でもある。孤独なニューヨーク生活において「良い所も悪い所も受け入れてくれている友人がいる」というのは、かなり精神的に助けられている。

ともあれ高校卒業後、香川県を脱出し「変わり者の集まりのような美大」に進学した私は「水を得た魚」のよーに「何でもあり。」人生をスタートした。

陶芸専攻にも関わらずゲーム会社に就職しゲームデザイナーに。高松に帰ってグラフィックデザイナーに。ここでやっと社会の厳しさと理不尽さを学んだ。そしてパートナーとデザイン事務所設立。1年後に一人でデザイン事務所を設立。もう人生自由自在だった。仲間もたくさん出来た。さらに何故かまた就職しアートディレクターに。この最後に働いたプロダクションが私のニューヨーク行きに大きな影響を与えた。
このプロダクションで私はデザインのノウハウを学んだ。「カッコイイものを頭を捻って作る。」のではなくて「理論でデザインする。」これで私はどんな状況でもデザインが出来るようになった。さらに社長のK氏はカナダ・トロントで7年間住みデザイナーをしていたので事務所の本棚にはアメリカのヴォーグ、エル、デザイン雑誌ばかりだった。この環境が私を少しずつアメリカかぶれにさせていったのだ。そしてなんとなく学ぶことが少なくなってきた頃、私の「何でもあり人生脳」が「だいたい、ずーっと高松にいるつもりなんか。それで楽しーんか。ほんだらガツンといかんかい。たった一度の人生やけんのー。」と暴走を始め、

私の頭が、「日本にあきた。」になってしまった。

これがニューヨーク行きが決定した「いきさつ」。
「じょんならんニューヨーク生活」の始まりである。
 
 
 

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